中央分水界を歩く 瓶割峠〜譲葉山〜珪石山(向山連山) |
兵庫 丹波 |
今回は、向山連山から東へ延びる分水界尾根を歩くことにする。春日町国領の助七旅館から少し 上がったところに小さな広場があり、そばに駐車場があるので、そこに車を停めさせていただく。西 には長谷大池の堰堤が見え、ガスが上がっている。その向こうにこれから歩く譲葉山が丸い山頂を 見せている。霧の上はすばらしい青空だ。 地形図を見ながら瓶割峠をめざす。昨年、黒頭峰から瓶割峠をめざしたが、途中で道を誤り、峠ま で行くことができなかった。そのときは、植林の急斜面を下り、林道の終点に出てきたが、林道の途 中に瓶割峠へのとりつきがあるはずだ。 |
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たんぼ道から少し入ったところに橋があるが、周辺の景色が一変している。木が伐採され、広い 道ができ、何やら工事中。そういえば、昨年ピンクのテープがあちこちに付けてあったが、工事用だ ったようだ。木に挟まれた石碑は取り出され、苔も取り除かれている。そのすぐ上にもう一回り大き な石碑が二基立っている。父たぬきが石碑の裏に踏み跡を見つける。これが瓶割峠への道かも。 地形図では、峠への道は谷を少し歩き、尾根にあがっている。踏み跡はしっかりした道だが一向に 尾根には向かわず、谷を遡るばかり。谷が二股に分かれるところまで来て、やはり道を誤っている ようなので元の林道に戻る。 石碑から50mほど歩いたところに山への道が見つかる。そこには赤布もあり、ここが峠へのとり つきのようだ。すぐ上には堰堤工事が進んでいる。植林で山が荒れ、土が流れるのを防ぐために 堰堤を造る。間伐、枝打ちなど、きちんと森を管理をすれば土砂の流出も防げるのだが・・・。植え るだけ植えて放置され荒れた山が日本全国にどれほどあるのだろうか。 工事している人が怪訝そうな表情でこちらを見ている。 |
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とりつきから少しだけ谷を歩くとすぐに道は尾根へと向かう。急なつづらおれの道をゆるゆると登る。 すぐに汗が噴き出てくる。尾根の中央部は深くえぐられ堀切のようになっている。同じ景色を繰り返 し、同じところを歩いているような錯覚にとらわれる。昔の人は何を思いながらこの峠を越えたのだ ろう?想う人のことを考えながら歩いたのだろうか。 細い竹が少し茂るところに出る。すぐそばに小広いところがあり、石組みも残っている。道の反対側 には瓦も散乱し、ここに建物があったことを伺わせる。ここには昔お堂があり、そこにあったお地蔵さ んだったか観音さんだったかは国領のどこかにお祀りしてあるという。以前、国領で出会ったおじいさ んにお聞きしたがかなり記憶が薄れている。※追記 お堂跡から水平な道を少し歩くと、そこが瓶割峠。東は黒頭峰、西は鐘が坂、峠の向こうは篠山市。 もちろん、中央分水界の峠である。大山振興会の白い杭が立っている。大柿プレートがぶら下がって いる。98年5月24日に来られたようだ。風が吹き抜けて涼しい。 さて、瓶割峠は二つあり、ここから東のピークを越えたところにもあるという。 瓶割峠から西の尾根にとりつく。尾根左が植林、右は雑木の林。大山振興会の杭のある尾根を15 分ほど歩くと、金山・鐘が坂方面と譲葉山方面の分岐に出る。 分水界尾根としばらく別れ、旧鐘が坂峠まで行ってみる。鐘が坂トンネルの上を歩き、深くえぐられ た峠は瓶割峠よりずっと広いものだった。ほとんど直角の斜面を滑り落ちるようにして峠へ下りる。植 林に囲まれて暗い。 現在のトンネルは2代目で、1代目は明治16年に開通。全国で3番目に古いトンネルである。しか し鐘が坂隧道開通までは、今もそうであるようにこの峠が交通の要所であったろう。1週間前に島田 さんと1代目トンネルを見学に行ったとき、旧峠にあったという石仏があったが、そこには生野銀山の 関係の名前が彫ってある。当時は生野や但馬、もちろん氷上郡各村から南へ向けて人や物が盛ん に往来したのだろう。篠山側に下れば、現トンネルのすぐそばに出るらしい。柏原側は倒木で道は荒 れているが、何とか下りられそうである。 |
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柏原側へ下りるのは次回のお楽しみとし、分水界まで戻る。トンネルの上は国道176号線を走る 車の音が響いている。木の間に見える金山を振り返りながら峠をあとにする。 分水界尾根に戻り、譲葉山をめざす。2000年冬に歩いたが、雪の中で迷ったことを思い出す。春 日町と柏原町の町界尾根だが地形図を見ながら進路を確認しないと迷いやすい山域である。兵と印 のあるコンクリート石柱があるのでしばらくはそれをたよりに歩く。枝が張り出したり、倒木があったり するがそれほど歩きにくいということはない。途中には、イノシシの大きなぬた場もある。イノシシと鹿 の楽園だ。 |
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431.8mの三角点ピーク(奥山)はどこかいな、と捜したが、三角点は見つからず、いつの間にか Ca460mのピークまで来ていた。469mピークはまだ植林されてまもなく、切り開きから譲葉山の 丸い頭が顔を出している。ここからは道が格段によくなり、歩きやすくなる。 展望はないが、これまでの道に比べ格段によいのと迷う心配がないのでルンルン気分で歩いてい く。しかし、これから向かう譲葉山の登りは覚悟しなければ・・・。 気分よく歩いているとすぐに譲葉山のとりつきとなる。譲葉山はポコッと丸い形だが、そういう山は 登ってみると急登である。雪がないだけ歩きやすいが、お腹が空いているのでフラフラとしながらや っとの思いで譲葉権現に到着。 |
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周囲は相変わらず暗い。関西独標会の緑色の山名板が架かっている。反射板跡でお昼にしようか とも思ったが、近くの風の来ないところでお湯を沸かしてラーメンを作る。無線でコールすると播丹界 三国岳のTQFさんから応答がある。あちらは5cmほどの雪があるらしい。そのあと、猪名川町の山 のかねちゃんとTQFさんが交信しているようだったが、残念ながらかねちゃんの電波は届いてこない。 |
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お腹もいっぱいになり、再び譲葉山から分水界尾根を歩く。15分で岩尾(三等三角点541.4m 点名権現山)。岩尾と書かれたプレートとテープだけの静かな山頂だ。以前来たときよりも整備され とても明るく歩きやすい尾根道となっている。この山域は柏高ワンゲル部のホ−ムグランドだが、新 しい黄色いテープが清水山への道案内している。昨年、一晩向山でビバークしたあとのものと思わ れる。その後も元気に活動しているようで安心した。 ピークを巻きながら丹波らしい赤松と雑木の混成林を快調に歩く。昨年11月に春日町棚原区が境 界調査をした札も下がっている。 |
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567mピークを越え、尾根を北西に下ると、柏原町東奥と春日町野村を結ぶ峠だ。しかし峠の道 は見つからなかった。少し荒れた道を登りきると、見慣れた向山登山道に合流する。ここまで来ると もう帰ってきたようなものだ。 清水山へ向かって歩く。珪石山との分岐で清水山へまわらず、珪石山から下りることに意見が一 致。珪石山で一休みし、激下りをロープに掴まりながら一気に下る。分水界展望所から日本一低い 中央分水界を眺める。篠ヶ峰が正面に霞んでいる。双眼鏡を覗くとおばあちゃんたちが石生駅西の 広場でグランドゴルフに興じている。 |
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水分れ公園におりると家族連れが遊具で遊んでいる。桜のつぼみはまだ固いが、あろ1月もすれ ば膨らむだろう。自宅までの道を歩いていると、近所の人や知り合いと出会う。ちょっと気恥ずかし い。「今日もよう歩いたなあ。」 家に帰り、国領に置いた車を回収に行く。瓶割峠は夕暮れを迎えようとしていた。 ※追記 最近、「国領区再発見」という書物が出版されました。瓶割峠などに書かれていますので、転記させ ていただきます。 この峠があまりに急で曲がりくねっているため、荷車に乗せて運ぶ瓶(立杭焼き)が割れることから 瓶割峠と呼ばれました。人二人がかりで荷車を使って米3俵運ぶのがやっとだったそうです。明治 32年に阪鶴鉄道(今の福知山線)が開通するまではこの峠が大阪福知山間の交通の要所であっ たため・・・後略 また、お堂跡については、 瓶割峠の頂上にあった大師堂には、国領から多七という人がでてお守りされていましたが、堂も古 び守りをする人もいなくなりました。そこで、大師堂をお守りするために長谷村(温泉)の若い人達 により大正の終わり頃、木馬で大師様を温泉の公会堂にお祭りしました。その後、戦争中戦争の 材料として供出され、現在は片腕だけ流泉寺に保管されています。 (写真が掲載されています。) また、大師堂と同じ場所にあった地蔵様が、巡礼橋の横に祭られているそうです。この地蔵様は 追いはぎに殺された大阪の呉服問屋の番頭さんの供養に建てられたものだそうです。 瓶割峠から国領への道は、西国札所である天橋立の成相寺に向かう道で「なりあい街道」といい、 昔はたくさんの巡礼さんが鈴をならしながら通ったそうです。巡礼橋という橋が竹田川に架かってい ます。 |
行った日 | 04 2/28(土) |
行った人 | たぬき二人 |
山行タイム | 国領8:35〜(20分ロスタイム)〜峠道とりつき9:10〜瓶割峠9:40−9:45 〜鐘が坂峠・譲葉山分岐10:00〜旧鐘が坂峠10:20〜分岐10:45〜 譲葉山12:20ー13:05〜岩尾13:20〜567mピーク14:00〜向山登山道 14:20〜珪石山14:40〜展望台15:04〜水分れ公園15:20〜自宅15:30 |
2.5万図 | 宮田、柏原 |