篠山盆地に入ると、低山ながら形のよい山が目に飛び込んでくる。「丹波富士」の異名を持つ高
城山である。山域全体が明智光秀の丹波攻めで有名な八上城趾として知られている。
午前中は、篠山市で全国車いすマラソン大会が行われ、たぬきはこの高城山のすぐ下で無線業
務をしていた。昼食後、八上下の登山口へ向かい、高城市松稲荷神社から登っていく。
登りはじめてすぐに、主膳屋敷跡と書かれた案内板がある。
主膳屋敷跡 落城後、時の支配勢力の城主が交代していくが、その政治の中心となる屋敷跡
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八上下の登山口 |
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主膳屋敷跡 |
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はじめは植林の谷を歩くが、すぐに明るい尾根に出る。これまでの暗い谷とはちがってナツハゼ
とミツバツツジ尾根だ。「鴻の巣」と書かれた看板が立つ砦跡からは、西には篠山の市街の向こう
に黒頭峰や馬頭の特徴的な山容が望める。千ヶ峰は雲の中。白髪岳が頭をちょこんと出している。
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鴻の巣から西の展望 |
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下の茶屋丸跡に出ると、さらに西の展望が広がる。雲が多く、蒸し暑い。朝は雨で少し寒
いくらいだったが、気温が上がってきた。しかし、真夏ほどではないので低山も歩きやすい季節と
なってきた。
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紅くなったナツハゼ |
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擬木の階段が続く |
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紅く色づき始めたナツハゼの尾根はなだらかで、「中の壇」という看板が立っている。
「中の壇 西より近づく的に供えた重要陣地」
なだらかな所以外は、擬木の階段が施され、登山道は整備されているので歩きやすい。
尾根からはずれてしばらく歩くと、右衛門丸跡。
「城主の屋敷跡 西方を防備し蕪丸にも通じ全山の連絡や指揮に当たる所」
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右衛門跡 |
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三の丸跡 |
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右衛門丸跡、三の丸跡、礎石のある二の丸跡を過ぎると、頂上の本丸跡。 |
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二の丸跡の礎石 |
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頂上の本丸跡 |
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頂上には、昭和六年建立の立派な「贈従三位波多野秀治公表忠碑」が立っている。しかし、草が
生い茂り、夏はあまり訪れる人はないようだ。北側の一段下がったところには岡田丸跡という看板
が立っている。462mの山頂には三角点はない。400年あまり昔にこの山域で激しい戦いがあっ
たとは全く想像できないほど静かだ。
木の間から、北に岩谷山、盃ヶ岳、すこし移動すると西ヶ岳、三嶽が望める。南には頭にアンテナ
施設を乗せた大野山。
父たぬきは無線のアンテナをのばして無線を始めたが、蚊が寄ってくる。早々に引きあげることに。 |
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頂上から北方面 |
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はりつけ松跡 |
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下山は、登ってきた方と反対の東へ下りる。すぐに蔵屋敷跡、池東上の番所と続く。こちらも擬木の
階段。ほどなく、野々垣コースとの分岐。ここを左にとり、弓月神社方面へ歩く。
分岐からすぐに、「はりつけ松跡」に出る。
落城の際、光秀の母、付人腰元等人質の処刑に使った松の跡と伝えられる。
戦国の悲話の跡は夏草に覆われている。明智光秀の丹波攻めに散った多くのいのちがこの山にあっ
たなどは夢のまた夢か。
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馬駈場 |
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馬駈場あたりから高城山を望む |
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はりつけ松跡からは比較的起伏のない道で、馬駈場という表示がある。
長さ220m東方に通ずる人馬急走のために設けられたもの
なるほど、ほぼまっすぐで平坦な道が続く。ここで実際に馬を走らせたのかな? |
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芥丸跡にある石仏 |
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藤之木坂道入り口 |
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馬駈場跡からしばらく歩くと、開けた芥丸跡。小さな石仏があるが、いわれも何もわからない。
芥川某の砦跡。眺望よく東・東北方面・山麓の街道等の防備に当たった所
芥丸跡からは、東に弥十郎ヶ嶽頂上の松がよく見える。今と同じように、弥十郎から八上城の落
城を見ていたのだろうか?
芥丸跡は388mピークだが、少し歩くと擬木の階段は左に向きを変える。赤いテープが木に巻い
てあるが気にもとめず、擬木の階段を下りる。尾根を歩くはずが、道は谷に下り、道なりに歩くと広
い谷に出る。出たところには、「藤之木坂道入り口」の石碑がある。弓月神社へ下りるつもりが・・・。 |
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八上の一里塚 |
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重兵衛茶屋 |
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藤之木坂道から車まではそれほど距離はない。昔の街道をのんびりと歩く。
「この道は、源義経も通ったところなんや。」と父たぬき。
「義経はここを通って三草山方面へいったんやね。」
街道脇には、コスモスが咲き乱れる「八上の一里塚」。また、但馬への山陰道と播州方面へ向か
う播磨街道の分岐点には重兵衛茶屋が残されている。
「このあたりは歴史の宝庫やね。」
道路脇には、名産の黒枝豆がはや売られていた。戦国の世に思いをはせながら平和な里を後にす
る。 |
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